女性が従事する肉体労働の究極の姿は、全裸での海女漁だというのが私の長年の主張だ。
労働に対する最大の効率と成果を追求する為、羞恥心も捨て去り、一糸まとわぬその身のすべてを晒す。
その気高い姿こそ、真のプロフェッショナル。
3箇所の地域の裸海女、実際、最も全裸海女に近かったのはどこの海女だろう?との考察だが。
これは圧倒的に舳倉島の海女だ。
これに関しては異論の余地がない。
私の知る限り、日常生活の衣装としては日本史上最小ではないかと思う。
その面積は陰部を覆っているだけで、物理的にもうこれ以上は全裸しかない。
対馬・曲地区の海女も、ふんどし姿ということで、露出度はかなり高めだ。
対馬のふんどし「ヘコ」は、布面積はかなり広く、その点では舳倉島のふんどし「サイジ」にはかなわない。
ですが、この「ヘコ」は腰に巻く極太の命綱(ハチコ縄といい、錘を編みこんであるという)に巻きつける形で一体化している。
通常ならふんどしと命綱は別々の装備だが、これに関しては合体しているため、命綱を解くと全てが外れてしまう。
そして、記録画像を見る限り、ふんどし部分のみ、すなわち「ヘコ」単体で装着することは基本ないようだ。
そして、どうやら「ヘコ」なしの、命綱のみの運用は問題なくできる構造をしている。
気質的に全裸になるのも厭わない、変な言葉だが「脱ぎたがり」が多かったのはどこか?
現在判っている限りでは、意外にも御宿の海女が奔放で開放的だったことが明らかになっている。
磯パンツというその装束は、他の地域より露出度が低いことは事実だが、海女がその衣装を自ら脱ぎ捨て、全裸になる姿が記録に残されているのは御宿だけだ。
一部の写真だけでなく、海女自身の回顧録にもそれは登場するのだから、非常に常習性が高く、全裸に抵抗を感じていなかったことがよくわかる。
他の地域より都会に近く、発達したメディアが出入りする中、1970年代近くまでトップレスで海女漁を続け、画像や映像に収まり続けた彼女らの奔放さは筋金入りだ。
御宿の海女たちは、仕事を終えて海から上がると、すぐに素っ裸になって休憩する、その方が気持ちいいから、と回顧していた。
舳倉島の海女たちだって、周囲は知り合いばかりの中、一仕事終えてリラックスしたときに、陰毛しか隠せない程度の煩わしい縄ふんどしなどをいつまでも付けていただろうか?
否、彼女たちの開放的な姿が残されていないのはおそらく、マライーニ氏がいかに海女たちと友情を築いたと云っても、彼は余所者の外国人。
赤い肌の異人の前に全てを晒すなど、出来なかったからなのだろう。
サイジを脱ぎ捨てた、舳倉の海女の生まれたままの真の姿は記録する者もいないまま、歴史の彼方に葬り去られたのだ。
あと重要なのが、都会から離れた、交通の便の悪い辺鄙な場所であること。
周囲から隔絶された離島&陸の孤島であることが情報の遮断と独自の身内意識を生み、裸海女であることに対する抵抗感が低く保たれた最大の要因であることは疑いない。
真偽は定かでないが、明治末期に鉄道が普及するまでは全裸海女を行っていた地域もあったとの情報もある。
狭いコミュニティの中では、大らかで開放的な生活が営まれていたのであろう。
きっと、こんな情景が繰り広げられていたのだと思う。
よく晴れた初夏の日差しが照りつける中、海女たちは今日も漁に出る。
その姿は腰にハチコ縄一本締め込んだだけの素っ裸。
豊かな乳房と陰毛が、水中でゆらゆら揺らめいている。
船に上がってハチコ縄を解くと、もうそれで生まれたままの丸裸。
濡れた全裸の身体を拭きながら、恋話や下の話に花が咲く。
すっぽんぽんでくつろぐ海女たちの船の横を網元の船が通りがかった。
「お前らあ、明日からは学者先生がおいでになるんだから、ちゃんとヘコは着けるんだぞ。失礼の無いようにしろよ」
へいへいと肩をすくめる海女たち。
絶海の孤島である舳倉島。
一日の漁を終え、昼過ぎには海女たちは港に戻ってくる。
命がけの緊張感が解け、家に帰った海女は、サイジを外し、身体を洗ったあと、素っ裸のまま家事や育児を始める。
周囲は皆知り合いばかり、恥じらいも何もない。
全裸のまま家の軒先で世間話をする子連れの海女たち。
腕に抱いた乳飲み子がむき出しの母親の乳房を吸っている。
世間話に退屈した男の子が、早く帰ろうよ、と母の立派に茂った陰毛を引っ張って促す。
分かったわかった、と母親は子の背中を押し、縁側で真っ裸のまま胡座をかいて談笑する海女仲間に挨拶して家路につく。
肉体労働に従事する女性の究極の姿
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