実はエロい 古代のエッチ満載の 万葉集は性におおらか 1


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万葉雑記 色眼鏡 その卅一 万葉集、おおらかな性を鑑賞する
     
万葉集の歌の性格の紹介に「万葉集の歌は、一面、性におおらかである」と云うものがあります。
今回はこの「性におおらかである」と云う面から万葉集の歌を楽しんでいます。
そのため、内容は大人の世界となっていますし、それなりの表現を使っています。
今回は、そう云う内容であることを御理解下さい。
       
性を語る時、現代もそうですが、抽象的に性やその行為を表すこともありますし、隠語でそれを表すことがあります。
この視線を下に最初に集歌2963の歌を紹介します。
この歌はお判りのように男女の共寝の歌です。
共寝の歌であることを前提に末句の「戀将渡」の表現に注目して下さい。
恋する男女が共寝をする時、改めて「恋をしましょう」と云う表現を使っています。
       
今更、説明する必要もないでしょうが、この「恋」と云う女性が発する言葉は、今に置きかえると「Hをしましょう」と云う意味です。
つまり、この歌は女性から男性に夜通しHをしましょうと甘く呼びかけている歌です。
       
この歌のように、今回は歌で使われている言葉で「恋」は「Hをする」、「紐解く」は「体を重ねる」または端直に「挿入する」と読み替えて、理解して下さい。
そうした時、万葉集の歌が実に「性におおらかである」と云う意味が判ると思います。
また、ここで「Hをする」と云う言葉を使いましたが、これもある種の現代語での「性交渉」、「愛撫」、「性戯」や「挿入」などの一連の行為を示す隠語です。
このように言葉を現代語に置き換えた時、歌が意味する世界がより身近に感じられると思います。
       
       
集歌2963 白細之 手本寛久 人之宿 味宿者不寐哉 戀将渡
       
訓読 白栲し手本(たもと)寛(ゆた)けく人し寝(ぬ)る味寝(うまゐ)は寝(ね)ずや恋ひわたりなむ
       
私訳 白い栲の床で貴方の手枕に気持ちがなごむ。世の人が寝るように熟睡することなく、貴方と「恋の行い」を夜通ししましょう。
       
       
最初に東国地方の歌から楽しんでみます。
インターネットで有名な壺斎閑話では集歌3361の歌を次のように解釈しています。
       
足柄の彼面(をても)此面(このも)にさす罠のか鳴る間静み子ろ吾紐解く(3361)
       
「をてもこのも」とは東国訛りの言葉だろう。
大伴家持が「あしひきのをてもこのもに」と歌ったのは、東国訛りで洒落て見せたものだろう。
あちこちにめぐらした罠のなる音が静まった、あたりには誰もいない証拠だから、さあ、互いに紐を解いて楽しもうというのが一首の意とするところで、朴訥ながらも恋の歌である。
       
壺斎閑話でも男女が着ている物を脱ぎ、Hを楽しもうとしていると解釈しています。
ほぼ、これが標準的な解釈と思います。
この歌を最初として、順次、歌の私訳を紹介し、個人的な解釈を説明しようと思います。
ずいぶんと下品になっていますので、ご容赦を。
       
       
集歌3361 安思我良能 乎弖毛許乃母尓 佐須和奈乃 可奈流麻之豆美 許呂安礼比毛等久
       
訓読 足柄の彼面(をても)此面(こても)に刺(さ)す罠のか鳴る間(ま)しづみ児ろ吾(あれ)紐解く
       
私訳 足柄山のあちらこちらに張り渡す罠が、時折、鳴り、そして静まる。その静まっている、そのちょっとの間にあの子と私がHをした。
       
       
屋外で男女が逢っている風景を詠った歌です。
二人は、今、林の茂みの中にいます。
その林の中に時折、人か動物かが動き回るのか、何かの物音が響きます。
そのような状態で二人は愛の営みをしています。
       
なお、野暮な説明ですが、歌の「紐解く」とは物理的な意味ではありません。
その時の行為を象徴した言葉です。
先の約束に従って意味としては「体を重ねる」とか「挿入」です。
それも、この歌では挿入の意味合いの方が強いと思いますが。
従いまして、歌の感覚からは非常に短い時間での出来事です。
       
歌には二人は誰かに監視されているかもしれない緊張感と短い時間での愛の営みをしたいと云う切羽詰まった感情があります。
そのような二人がどのような体位を取ってHをしたかを想像して下さい。
万葉人は、里人であるその二人の姿を想像して、歌を楽しんでいます。
       
貴族のようなHをするための部屋(塗り籠、または籠り間)を持つような人々ではありません。
平安時代までは庶民の家は掘り込みの竪穴式住居が中心で、家族単位での雑魚寝が基本です。
独立していない若い男女のHは屋外でせざるを得ません。
       
その屋外で男女がHをしていることを前提に次の歌を見て下さい。
男は女の子とのHがとっても気持ち良かったと詠っていますが、わざわざ、どのような体位でHをしたかも詠っています。
その二人の姿を想像しながら鑑賞をして下さい。
このような歌があるため、万葉集の歌は、一面、性におおらかであると評価されるのです。
       
       
集歌3530 左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母
       
訓読 さを鹿の伏すや草群(くさむら)見えずとも子ろが金門(かなと)よ行かくし良(え)しも
       
私訳 立派な角を持つ牡鹿が伏すだろう、その草むらが見えなくても、あの娘のりっぱな門を通るのは、それだけでも気持ちが良い。
       
注意 教室の授業で鑑賞しない場合は、古来、歌意に従って歌のさお鹿は男性の性器、金門は女性の性器、草群は女性の陰毛の寓意を以って、大人の歌として鑑賞します。
       
       
想像して頂けたでしょうか。男は、本当は女性の陰毛がはっきり見える方向から抱きたかったようですが、それが出来ませんでした。でも、あの娘とのHは気持ちがよかったと詠っています。つまり、男は陰毛が見えない方向から女性の体を抱いたと想像が出来ます。それも何らかの事情でせわしない短い時間でのHです。
この集歌3530の歌を下敷きに集歌3531の歌を見て下さい。歌には同じ男が詠ったような雰囲気があります。
       
       
集歌3531 伊母乎許曽 安比美尓許思可 麻欲婢吉能 与許夜麻敝呂能 思之奈須於母敝流
       
訓読 妹をこそ相見に来しか眉(まよ)引(ひ)きの横山辺(へ)ろの鹿猪(しし)なす思へる
       
私訳 愛しいお前だからこそ逢いに来ただけだのに、まるで眉を引いたような横山の辺りの鹿や猪かのように扱われる(追い払われる)と思ってしまう。
       
注意 この歌は教室の授業で鑑賞しない場合は、集歌3530の歌を受けて男女が野良で「鹿や猪のようにする」と鑑賞します。
       
       
集歌3530の歌では男がどのような体位で女を抱いたのかが想像できるかと思います。
その体位を想像しながら集歌3531の歌を鑑賞して下さい。
「相見る」とは、相手の女性の合意の下、体を抱くと云う意味があります。
その時の男の感想が「鹿猪なす思へる」です。
つまり、「お前とおれとはまるで鹿や猪みたいだなあ」と云う意味です。
       
林の中で男女が愛の行為をしています。
その時の姿が「まるで鹿や猪みたいだなあ」です。
さて、貴女はどのような体位を想像しましたか。
ここは東国の林の中です。
       
日光街道や箱根の山のような立派な木々が立ち並んでいたかもしれません。
地面は湿度たっぷりの苔むす状況かもしれません。
もし、そのような場所ですと、女は大きな木を抱えてその身を支えたかも知れません。
そのような女の姿に対して「鹿猪なす思へる」であったのではないでしょう。
当然、そのような体位では男は女性の陰毛は手触りで確認が出来ますが、眺めることは出来ません。
       
       
       
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