「目が合う」ということと「セックスをする」ということの間に大きな一線がなかった古代以来、世界に類を見ない、性をめぐる日本の高度な文化はいかに生れたのか?
先頃亡くなった橋本治の論考から引用します。
橋本治「性のタブーのない日本」より
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日本語には「FUCK」に対する動詞がありません。
女性器名をサ変動詞にして「おまんこする」という種類の表現にしているだけで、性交自体を表す動詞がありません。
だから、「FUCK」を日本語に訳すと、ただ「やる」です。
「FUCK」にふさわしい品のない表現だと思って、私は「やる」とか「やっちゃった」を連発していますが、ただ「やる」だけだと、「なに」をやるのか分かりません。
でも、それでいいのです。日本語は「FUCK」に対応する動詞がないのだから。
なぜその動詞がないのかというと、日本には「その行為」だけを特別にピックアップする習慣がなかったからです。
日本ではその行為が「逢う」ということに含まれていて、逢ったらもうやっちゃっているわけで、「その行為の部分」だけを特別視する必要がないのです。
「逢う」は当然「会う」ですが、「合う」と元は一つです。
旧仮名遣いでいくと、どちらも「逢ふ」で「合ふ」です。
だから「古事記」には《御合而(みあいて)》という表現も登場します。
(中略)
「FUCK」に対応する動詞が存在しないということは、「その行為」自体を特別視しないということです。
「FUCK」が「性交をする」という意味から離れて、「人を罵倒する時に使う下品な表現」になってしまっているのは、当然、アダムとイヴの時代から続く「神の怒りにふれちゃうようなよろしからぬ行為」という色彩を性交が背負ってしまっているからでしょうが、日本語の「合う」や「逢う」にはそんなニュアンスがありません。
性行為であることを率直に語って、しかしそこに「FUCK」のような卑語表現がないのが日本語で、「合う」や「逢う」が「率直な表現の言葉」であるということを理解しないと、「表現にぼかしが入れられた」という風に感じてしまうことになります。
http://blog.livedoor.jp/gensenkeijiban-joumon/archives/55124418.html
性行為の表現が下品にならない日本語
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