大人と子供、一回り以上の年齢差、そして世代間のギャップ等々いずれも大きな隔たりはあったが、それらの壁を自然体で乗り越えて下半身はバッチリ相思相愛だった我々夫婦は既に昭和時代からそういった禁断の関係を秘密裏にスタートさせていた。
とにかく妻の先鋭的だった水泳体型は若輩の自分をその豪傑さと淫靡さで扇情し、勃起力を倍加させた。
セックス時に小刻みに震えるオッパイも良いが、秘部を覆う未処理の濃厚な陰毛の生え方はヘアヌードを披露した芸能人で言えば竹●み●りや荻●●慶子級の官能美を常に放ち、その剛毛は視覚的にも触り心地も何はともあれグーで、チンポに毛が絡み付くヘアリーなセックスに溺れた。
海鮮の匂いそのもののマン臭も、絶えず自分の鼻と神経を刺激し、絶頂にまで到達すると部屋中に生々しく充満し、無性に性欲を掻き立てた。
もっともこの時代は今のようにマンコのケアなど無かったし、妻もそれは好きじゃないようで、洗っていれば十分。
自分が相手ならマンコは特に手入れする必要が無いので「毛深くて匂うの好きだもんね~ 。楽チンだわ…。」と安心していた。
水泳で鍛え上げた妻のマンコはそれだけじゃない。
お家芸の三段締めは申し分なく我が巨根をしっかりホールドし、加えてリズミカルに締まりをコントロールしながら自分を極楽往生させてくれる。
そして究極に淫らな放尿プレイで勢い良くオシッコを飛ばしてなお一層奮起させてくれる。
妻の良く出来た作りの美出べそもセックスを促進し、へそ肉を躍動させて鍛えられた身体をアピール。
また、へそも妻の性感帯になっていて、愛撫すると激しく悶える。
自分が中学卒業後も妻と交際を続け、なお一層セックスに磨きを掛けた。
自分が高校時代は今までの延長でこれといった進展は無かったが、大学入学直後の1988年5月、妻と初のラブホに入った。
まばゆいラブホにはプールがあり、おまけにウォータースライダーもあって、ゴージャス!
自分たちは全裸で泳ぎ、そのウォータースライダーで童心に帰ったようにキャッキャとはしゃいで遊び、それからベッドで絡み合った。
正常位と騎乗位のブリッジ態勢でセックスをした。
間も無く34歳になる妻は身体も性欲も衰えは一切無く、むしろ磨きが掛かっていた。
同年夏には、人目に付かない山あいの渓谷で、バイクツーリングがてら、一緒に全裸になって初の青姦にも挑戦したりした。
ちょうど周囲からは死角になる水もキレイな渓流があって、ちょっと深かったけど、バシャバシャと水を掛け合いっこして、軽く泳いで石のゴロゴロしている川原でセックス。
海辺でもやはりこれも人目を避けて青姦プレイをして、波の打ちつける岩場で立ちバックで妻の身体を陵辱するように激しく身体を重ねた。
自分はその頃、妻の彼女を作れとの勧めで一時的に一つ年上の他校の女子大生・若菜(仮名)と交際し、その処女までいただいて、セックスはいつもリードしていたが、妻に開発された精力も強すぎて、若菜もついてこれなくてか、いつの間にか疎遠になって自然消滅した。
若菜との交際期間は1988年の8月から1991年1月に掛けての事だったが、妻に「彼女で物足りなかったらいつでも相手するからね!」と言われてた自分はその間もしばしば妻とは交わったが、後に妻は「ホントにごめんね!あれは試しよ。シゲ君ならきっとあたしを採ると思ったからなの…。」と打ち明けてくれた。
ありふれた若い女子では身も心も満たされなかったのが正直なところだった。
やがて、自分が大学三年の正月休み明け1991年2月に復縁して直ぐ、36歳になっていた妻は「できるおチンポの男と結婚したいの!」、「シゲ君は男の中の男!そしておチンポの中のおチンポ!」、「好きなだけセックスさせてあげるから一緒になろう!」と淫語交じりに求婚してきて、その痴女めいたそのアプローチに驚愕しながらも二、三度でOKして、心も真の相思相愛を身を持って確証した。
同年4月から同棲も始めてセックスも加熱し、この間、ちょっとナチュラリスト気質の妻とはしばしば休日に自宅で一日中裸で過ごしたりもした。
やがて翌1992年3月に自分は大学を卒業して就職し、直後の同年6月に自分たちは入籍して、23歳になった自分は、38歳になった妻と7月に挙式。
まだ社会の右も左もわからないのに、妻のマンコの虜になった為に結ばれ、結婚後は待ったなしで猿みたいに子作りのセックスに没頭した。
自分たちのセックスの体位はほとんど対面なんだが、妻はスクワット感覚の騎乗位が最高に好きで、これは初体験時から定着しており、自分は密着正常位と、立位なら駅弁スタイルも得意だ。
相変わらず青臭くて甘えるような底無しの性欲の自分を妻は「童貞の心を忘れないチンポ」なんてからかっていたが、それこそ自分の魅力、自分らしさだと讃え、あの日の初体験を思い出して貪るように身体を求め合い、その年の秋以降は妻に子種を次々と注入した。
そんな女体の成す業に身を乗り出す自分はこの頃、セックスには卑語を呼称合っていた。
妻「おチンポ~!おチンポ~!あたしが可愛がってきたわんぱくなおチンポ~!」
自分「マンコ~!マンコ~!鍛えられたマンコ~!ずっと惚れてきたお転婆なマンコ~!」
妻「子宮を突いて突いて突き捲って~!天下の亀頭がもっと欲しいの~!」
自分「締めて締めて締めてくれ~!オレのエキスを絞り出してくれ~!」
妻「やんちゃなぶっといおチンポがあたしの中で暴れてるわ~!いけない子ね~!」
自分「オーッ!オレたちのタワシ(陰毛のこと)が擦り合ってるぜ~!スキモノの赤貝がどろどろのヨダレを垂らしちゃってさ~!」
妻「温かいお汁、どんどん出してあたしのお腹を膨らませて~!」
自分「おうっ!オレのチンポで孕んでくれー!」
例えばこんな感じだが、あくまでも卑語は持続力を高めるオプションだ。
嫁のセックスは一言で言えばストレート。
水泳選手だったせいかひた向きに、そしてコーチとしての主張を含んでいるために、その点はやや嫁がリードしている。
対する自分のセックスは妻が言うにはワイルドらしい。
手当たり次第にモノにするハングリー精神があると言っており、もちろんパワーじゃ自分の方が遥かに上回っている。
自分は妻の醸し出すはしたない痴態を、妻は自分の持ち前の瑞々しい肉欲をそれぞれ渇望し、その密接なコンタクトが絶好のセックス合戦を繰り広げる。
競泳で渾身の力泳をするように日々何もかも忘れて裸で汗と淫臭にまみれて絡み合い、翌1993年1月に妻は妊娠が判明。
「やった!受精したんだ!」と自分は有頂天だった。
この頃だとかなりの高齢出産になるため、周りからは流産だの奇形児が生まれるだの不安の声も多々あったが、妻が39歳になって間も無い同年8月、そういった下馬評を覆し、自然分娩で元気な男児を出産した。
見事なアラフォーでの初産に産婦人科医は「奥さんは子宮も卵巣も出産適齢期の20代並みの元気さですよ!」と絶賛した。
きっと妻には大きな若々しい肉体に見合った安産が出来るだろうと心から信じていた。
妻は「あたしの育てたおチンポで気持ち良く産めたから嬉しくてたまらないの!」と、自分も「オレを教えたマンコで産んでもらってとっても嬉しいぜ!」とこれも卑語交りに喜びを分かち合った。
この高齢初産に成功した秘訣は
・三段締めマンコ。
・剛毛な陰毛。
・生々しいマンコの匂い。
・飛距離抜群のオシッコ。
・逞しさとエロさ満載の本格的な水泳体型。
・美出べそ。
これらが極限まで自分の性欲を引き立てたからだ。
妻は専ら自分のチンポの成長ぶりに掻き立てられたと言っていた。
振り返って、自分のわがままを活かした性教育に始まり、率先してその身体で自分の性を開拓してくれた妻にはこの上ない感謝の気持ちでいっぱいだった。
こんな「縁結び」と「子作り」だった。
続く。