会社に勤め始めてからは 自分のSexと他人のSexがハッキリ分離してきた気がします。それは今までの混在していた行為から考えれば 「会社が マスのオカズの仕入れ場所」ではあっても、「それを見ながら マスを掻く場所では無かった」と云うことです。会社はもちろん仕事中心の場所ですから 会社でそれを求めることは無いのですが、身体を張ることでは有名な企業でしたから 社内の気風も荒く、Sexの話しでもオープンで単刀直入に口にされ、アヤも情緒もあったものではありません。
例えば同じ工場の同僚で 組合の役員なども兼務する遣り手の男などは 奥さんが永年胸を患っていたこともあり、月に2〜3辺は奥さん公認で 当時まだあった工場近くの赤線(遊郭)に泊まります。翌朝はスッキリした湯上りみたいな顔をして出勤し、「いやぁ 昨日はヨカッタ!。朝起きて締め括りに もう一発お願いしちゃいましたよ!」なんて云う訳です。そんな調子ですから 赤線へ行くのも、帰りに一杯やるのと同じ感覚で「つあわない?」なんて云うのが日常でした。
また今思うと 時代の状況が懐かしく思い起こされます。別の同僚は 結婚話のとき、挙式の日取りの話で 相手方の親が「日が良い悪い」に拘っていたら、「仏滅にでも 子供を生みゃぁがったら、押し込んで 絆創膏でも貼ってやるぞ!」と啖呵を切った奴です。この男の独身時代の行動は傍若無人で ある夕方会社を出ると濃い化粧の女が待っていました。高く靴を一足さし上げて 大きく振っています。後で聞いたら 昨日呑み屋で一緒になったオンリーさん(街娼に対して 当時の占領軍軍人の相手を決めてお相手する女)で、意気投合してその女の家で雑魚寝していたら 相手の黒人が朝からやって来たので、「殺されない内に 裏から裸足で逃げ出したんだ」と云っていました。
工場の現場の組長連中の話も 夜勤での夜中のムダ話も、多くは 戦争に行った時の思い出と猥談でした。しかしそれは猥談と云うには あまりに明るい話し振りで、「イヤ そのとき一晩に7回ヤッタら、最後は出るもの無くて 煙(けむ)が出た!」みたいな話しでウソだか冗談だか…。組長二人が工場の帰りに 自転車乗ってて小川に落ちた主婦を助けた話しでも、「おめえは ああ云うときでも手が早い」「何で?」「オレは 頭の方で、オメエは 足の方だった」「イイじゃ ねえか」「ヨカ ねえよ」「何で?」「あの女 パンツ穿いて無くて オメエの方が良く見えた」「そういやぁ 具合よさそうなモノだったなぁ」…で大笑いです。
大笑いと云えば 工場で昼休みに事件が起こったことがあります。ある日昼休みの時ならぬときに救急車が工場に走り込んで来ました。こういう情報は 1時間もしない内に工場中に知れ渡るもので、それに拠れば「抜けなくなった」のだそうです。「何が?」って アレがですよ。前から仲が良かった従業員の男と女が道具置き場にしけ込み 一戦に及んだところ急にそこに踏み込んでくる奴がいて、女の方がビックリして ペニスをヴァギナに入れたまま「膣痙攣」を起こし、抜くに抜けず二進も三進も行かなくなったので 救急車で病院へ運んだのだそうです。痛がるし 担架には二人一辺に乗せられないしで、大変だったそうです。知ったかぶりをする奴が「そう云うときには 水をぶっ掛けりゃいいんだ」と云いましたが 犬じゃあるまいし!。
その中で唯一 私が家でのマスの「オカズ」になったのは 工場に配属されたサッカーの選手のマスを見たことです。私もまだ女性の肌を知らず 視覚的バイ・セクシュアルの気味があった時代ですから、何だかベタッと肌に来そうな 女性と遊ぶよりも、乾いた小麦色の肌で腰が締まり逆三角に胸の張った その男の入浴時の裸体の方に、見飽きない 魅力を感じていました。それ以上別にどうしたいと云う訳ではなく 見れば「イイナア」と思うだけのことです。この男は大変な女好きで 昼間は豪快に女のことを語り、常に自分がヤッタ女の記録をノートに付け 「何時間で 何回イカシた」などと自慢していました。
会社には当直の制度があって 技術系の係員は三交替を組んでいますが、事務系は一晩ずつ当直で泊まるのです。私が夜勤の時にその男が当直の時があり 私は現場を巡回した後「アイツ 風呂へでも入っていないかな」と思い、事務所に帰る前に 別棟の風呂場へ回ってみました。当時は日本全体が戦後復興の最中で 生産設備には金を回しても建物にまでは金を掛けられず、風呂場なども腰周りは1m半くらいの高さのモルタルですが 上は風除けにガラスを嵌めただけの粗末な造りです。私が巡回の道順の関係で風呂場の入り口の反対側かの窓の方から近付いて行くと、果たして今 その男が風呂に入っています。(Ⅱへ 続く)(ブログ「茫々録・走馬灯」より)