武田美佳はこの七月に二十六歳になったばかり。結婚してまだ半年、共働きをしているせいかまだ「人妻になった」という実感もあまりなかった。結婚をしたら勤めている銀行を辞めて専業主婦になろうと思っていたのだけれど、入社してまだ三年にもなっていなかったし上司の説得もあってそのまま職場に残ることにした。もちろん経済的な理由もある。
新居には新築のマンションの二階にある一室を借りた。二人で新居を探すとき、都内の狭いアパートより郊外の広いマンションの方がいい、と話し合って決めたのである。家賃も手ごろだったし、駅からも近い。
初めは慣れなかった結婚生活にもだいぶ慣れてきて、最近は生活のリズムというか日々の暮しの勘が掴めてきたように思える。不満らしい不満といえば会社までの通勤時間が長くなったことと夫の帰りが遅いことぐらいで、経済的にも余裕はあったし、夫婦仲も結婚当時と変わらず円満だった。
美佳の夫、健介は大手町にある財閥系の金属メーカーの人事部に勤める平凡なサラリーマンである。人事の仕事は忙閑の差が激しく、美佳が帰宅するともう帰っているということもあれば徹夜仕事になることもある。ただ新婚八ヶ月目に入った今月は、新卒社員の採用の仕事が大詰めで、ことさらに忙しい日が続いていた。
その日、美佳が帰宅すると誰もいない部屋で電話が鳴っていた。七月も終わりに近づいた暑い日だった。美佳は急いで受話器を取った。
「はい、武田です。」
閉め切っていた部屋の中は熱気が充満していた。
「あ、俺だけど、今日もちょっと帰れそうにないから実家の方に泊まるよ。」
いつもと同じ事務的な健介の声に、美佳はたまらなくせつない思いがした。仕事を終えるのが遅くなると健介はたいてい都内にある自分の実家に泊まる。健介の実家は目白にあり、会社からタクシーに乗っても三千円ほどであったし、満員の電車での通勤の大変さは美佳も身をもってわかっていたからそれを寛容に許してきたのだが、この二週間はそれが度重なっていたからさすがの美佳も淋しさを感じ始めているのだ。
昨日も一昨日も、健介は帰宅していない。共働きの両親の一人娘として育ち、家に一人でいることに慣れてはいるけれど、ひとりぼっちの夜はやはり心細いし、淋しい。それが三日も続くなんて、と思った。
「仕事がそんなに大事なの?」
向こうが会社のデスクからかけていることは承知の上だったが、美佳はたまらず声を荒げてしまっていた。知り合ってからほとんど喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかった美佳としては、かなり思い切った口調だった。健介は何か言い訳をしようとしているようだったが、美佳はそのまま邪険に電話を切った。
きっと健介はすぐにもう一度電話をかけて来るだろうと思った。聞いても仕方のない弁解は聞きたくなかった。それにいつも健介がするように、優しい声で諭すように話されるのもいやだった。それで最後は結局、美佳のわがままということになってしまうのがわかりきっていた。
美佳はその電話のベルが鳴る前に留守番電話に切り替わるボタンを押し、すぐに身を翻してハンドバックだけを手に家を飛び出した。
七時を過ぎて、西の空が赤紫色に染まっていた。辺りは暗くなり始めていた。飛び出しては来たものの、行く場所が思い当たらなかった。美佳はしかたなく駅の近くにある喫茶店に入った。
雑居ビルとマンションの間に挟まれた小さな平屋建てで、清潔そうな店だった。『ブルージュ』というこの店に、以前に健介と二人で訪れたことがある。まだ引っ越して来たばかりの頃だった。紅茶がおいしかったのが印象的だった。それに気の優しそうな店のマスターと、少し話したことがあった。
何より、この郊外の小さな町には他に喫茶店と呼べるような店がない。あとはだいたいスナックとかパブとか、お酒を飲むような店ばかりなのだ。
「いらっしゃいませ」
口髭を生やしたマスターは三十代の半ばくらいで、背が高く、がっしりとした体格をしている。店は四人掛けのテーブル席が五つほどと、カウンター席という小さな作りになっている。
「今日はお一人ですか?」
マスターは美佳を憶えていてくれたようだった。もう閉店が近い時間なのか、店はすいていた。
奥のテーブル席に一人だけ客が座っていた。
「え…ええ。」
美佳は無理に笑顔を作って答えた。
「喧嘩でも?」
美佳が険しい顔をしていたからだろう。マスターはよく透るバリトンで静かに訊いた。鳶色の眼は人の心の中をなんでも見透してしまうような不思議な雰囲気を持っている。
「え、ええ…まあ。」
「そう…。」
テーブル席の一つに腰掛けた美佳の注文を聞かずに、マスターはカウンターの中から飲みかけのワインの瓶とワイングラスを持ってきて美佳の前に置いた。
「少しだけ飲むと落ち着きますよ。サービスにしときます。といっても常連さんからの戴き物なんですけどね。」
赤紫色のワインが注がれる。
「どうもすみません…。」
普段は滅多にアルコールを口にしないが、何を飲もうと思って入ったわけでもない。健介へのあてつけの気持ちも働いて美佳はグラスに口をつけた。口あたりが柔らかく、乾いた喉にやさしげな、軽い感じのワインだった。
「あ、おいしい…。」
マスターは何も言わずにわずかに微笑み、カウンターの中に戻って洗い物を始めた。美佳はぼんやりと窓の外を眺めた。急ぎ足で家路に向かう背広姿の男性が、店の前を通り過ぎていく。
やがて奥の席でスポーツ新聞を読んでいた商店主風の男性客が勘定を払って出て行ったの最後に、店の中には他に客がいなくなった。
マスターが濡れた手をエプロンで拭きながらカウンターを出てきて美佳の前の席に座った。
「喧嘩、って、いったいどうしたんです?」
マスターが静かに訊いた。
美佳は少しの間ためらったが、このマスターに聞いてもらうのも悪くないかと思った。
八ヶ月前に結婚した夫の健介は、仕事で帰りが遅くなると何かと理由をつけて実家に帰ってしまう。それも七時頃に電話をかけてくる。ひどい時には留守番電話に「今日は帰れないから」というメッセージが入っているようなこともある。もっと遅くにかかって来る電話なら、なんとか早く終わらせて帰ろうとしたけれど電車がなくなったとか、そういう姿勢が感じられるのだが、そんな時間ではないのだ。それはそれで気を使ってくれているつもりなのだろうが、淋しくてたまらなくなることもある。
人事の仕事をしている健介にとっては七月と八月は最も忙しい時期らしく、今月はそんなことがしょっちゅうだった。
「しかも今週は今日で三日連続なんですよ。」
美佳の話を、マスターは相づちを打ちながらほとんど黙って聞いていたが、美佳が話を終えると、
「そう…。僕だったら、こんなきれいな奥さんを一人ぼっちにするなんて、とてもできないけどねえ。」
と言って、おどけたようにウィンクをしてみせた。
「まあでも、仕事が忙しい時はしょうがないのかもしれないなあ。僕も昔サラリーマンやってた頃は徹夜なんてこともよくあったし…。彼は無理して頑張っちゃうタイプなんでしょう。」
「そうなんですよね…。」
「僕の場合は無理に頑張るのができなくって辞めちゃったんですけどね。」
美佳はようやく笑い、それでなんとなく打ち解けた。マスターは商売柄なのか聞き上手で、身の上話のようなことになった。
健介とは女子大を卒業したばかりの頃に友人の紹介で知り合った。
一つ歳上の彼の持つ穏やかな雰囲気と静かで優しそうな話し方に魅かれて、交際を始めるまで時間はかからなかった。早い時期に両親にも紹介したのだが、特に母親が彼のことを気に入って、交際一年目くらいから結婚という話も出始めた。
「少し早いかもしれないけど」という彼のプロポーズに、美佳もまったく異存はなかった。去年の七月に婚約し、彼の仕事が比較的落ち着いている十二月に式を挙げた。
「ああ、じゃあ前に彼と来たのはまだ新婚ほやほやの頃だったんだね。」
「ええ、たしかそうですね。」
「たしかテニスのラケット持って。」
「そうですね、テニスの帰りに寄ったんです。」
「二人とも上手そうだね。」
「ああ、いえ、彼はまあ上手だと思いますけど、私は好きなだけで…。」
「休みの日なんかはやっぱりテニス?」
「そうですね…、彼の方が行こうってよく言うので…。」
「共通の趣味があるっていうのはいいね。」
「ええ…そう思います。」
「旅行なんかは?」
「温泉に一回だけ行きました。でも彼は体を動かす方が好きみたいで、テニスの方が多いですね。」
「ああ、あれでしょう、学生時代からテニス部とかでやってたんだ。」
「ええ、まあサークルなんですけど、けっこう強いところだったみたいで。」
そんな会話をしながら、知らず知らずのうちに美佳はかなり立ち入ったことまで話していた。
「通勤はどちらまで?」
「東京駅です。赤羽で乗り換えて。」
「じゃあ、混むでしょう。」
「ええ、すごく。だからなるべく早く出るようにしてます。」
「いや、夕方もね、混んでるでしょう。特に埼京線にはスゴいのがいるらしいから気をつけたほうがいいよ。」
「はあ…。」
「うちの常連さんなんだけどね。やっぱりOLやってて、綺麗な顔した子なんだ。で、その子が話してくれたんだけど、三人グループでね、前と横と後ろから触られて、ひどい目に遭ったって…。」
「気をつけます。」
美佳は笑顔で答えた。マスターの好意は嬉しかったけれど、それ以上具体的な話になるのがいやだったのだ。
話をはぐらかされたような形になってマスターはちょっと物足りなそうな表情だった。マスターにしてみれば、もっと具体的な話をして注意を促したかったのだろう。まるで話の腰を折ってしまったようで、悪い気もしたけれど、痴漢の話はしたくない。
テーブルの上のグラスには二杯目のワインが注がれていた。
「マスターは結婚されてないんですか?」
話題を変えたかったこともあり、また自分の事ばかりを話していることに気が引けて美佳は訊いた。
「ははは、結婚ね。」
マスターは笑った。口髭のせいで第一印象ではさほど感じられなかったが、よく見ると整った顔立ちをしていて、笑った顔にも愛敬がある。美佳の母が男性を褒めるときに使う「人品骨柄卑しからず」という表現が似合いそうだった。
「僕は人妻の不倫相手と専門だから。奥さんみたいに淋しい想いをしてる人妻を慰めるのが忙しくて結婚どころじゃないな。」
「えーっ、本当ですか?」
艶っぽい話が苦手な美佳は笑ったが、何か、不安のような複雑な動揺が胸の奥に沸き上がるのを感じていた。
例えばこんな淋しい想いをしている夜に、このマスターのような男性に誘惑されたら、なんとなくその気になってしまう人だっているに違いないと思った。
「ははは、半分くらい冗談、かな。奥さんはまだ新婚だから自分で人妻って意識はないでしょう。」
「はぁ…まだあんまり実感がないんです。働いてるし…。」
「そうだろうね。浮気したくなったらいらっしゃい。奥さんなら大歓迎だよ。」
マスターは笑って立ち上がり、窓のカーテンを締め始めた。
「あ、今日はもう終わりですか?」
「うん、少し早いけどね。今日はもう店じまい。」
「あ、じゃあ、あの、おいくらですか?」
「今日はいいよ、サービス。」
「えっ、でも…」
「そのかわりまた彼と来て下さい。」
「どうもすみません。」
「売上の計算してくるから、もう少しゆっくりして行くといい。」
マスターは気さくにそう言うと、美佳を残してカウンターの奥に引っ込んだ。
一人になって、美佳はもの憂げにため息をついた。喫茶店だとはいっても密室であることには変わりがないし、そんな所で仮にも男性と二人きりでいるのだ。できれば早めにこの店を出たいと思った。
それに美佳はとても健介に会いたくなった。家に帰れば健介からまた電話があるかもしれないし、美佳が電話を切ってしまったことで心配をして帰って来てくれるかもしれない。
(健ちゃんに…、抱かれたい…)
健介に、いつものように優しくいたわるように抱きしめてもらいたかった。健介のいないこの三日間、美佳はずっとそう思っていたような気がする。健介がしてくれる熱い口づけ、そして健介の手の平が美佳の肌を愛撫する感触を、美佳はふと思い出し、思わず顔面が熱くなった。
(こういうのって…欲求不満、っていうのかな…)
席を立って、レジの横にある公衆電話の受話器を取った。テレホンカードを入れ自宅の番号をプッシュする。出る前に留守番電話にしてきて良かったと思った。公衆電話から録音されたメッセージを聞くことができる。きっと健介が何かしら伝言を残してくれているだろう。声が聞きたかった。
『0件です。』
しかし、受話器からは無情にも冷たい機械の音声が、メッセージが録音されていないことを告げた。美佳は受話器をゆっくりと置いた。
(無理もない…か)
とも思う。さっきの美佳の言葉は、考えてみれば思いやりに欠けていた。
でも一人で眠らなくてはいけない美佳の淋しさを、健介だって少しは理解してくれてもいいのに、という気持ちもある。今、もしも健介と話ができたら、美佳はきちんとさっきの発言を謝るけれど、健介にも謝ってほしい。
健介がこんなに忙しい日々は、結婚して初めてのことなのだ。仕事なんだから仕方がないというのはわかるけど、美佳の淋しさだって当り前のことのはずだ。
ともかく家に帰って健介からの電話を待とう、と美佳は思った。
だが美佳は注がれた二杯目のワインを残して帰るというのも気が引けた。それにマスターが出てくるまでは黙って帰るわけにいかないとも思った。
あらためて店の中を見回すと、マスターの雰囲気に似合わず可愛らしい女性的な装飾品や置物が目立つ。時には今の美佳のような女性の一人客が小さなため息をつきながらこんな風に座っていることがあるのかもしれないと思ったりもした。
(あのマスターって、どういう人なのかしら…)
美佳は意を決してグラスを取り、ゆっくりとその紅いアルコールを飲み干した。
そう広くない店内は静まり返っていて、型の古いクーラーの音だけが響いていた。ワインのグラスが空になった途端、猛烈に孤独感が襲ってきた。一人きりで座っている自分がなんとも悲しくなった。
(不倫しちゃっても知らないから…)
ふとそんなことを思ったりもした。今からマスターに口説かれたら、なんだがその気になってしまいそうで不安だった。心のどこかで、男性の硬い肌に触れたいような気もしている。一夜限りの危険な経験なんて、ちょっと憧れてしまう。
(でも…)
美佳は結婚するまで、自分は性的な欲求の少ない人だと思っていた。健介も、同年代の男性の中では淡泊な方なのだと思っていた。スポーツで発散するタイプなのか、いわゆる婚前交渉はあったけれど、会うたびにとか、何をおいてもという感じではなかった。それが最近、美佳は少しずつ大人の女の悦びがわかりかけてきているように思う。頭の中が真っ白になるような感覚も、結婚前には数回しか感じたことがなかったのに、ここ数ヶ月は抱かれるたびに昇りつめる感覚がある。そしてそんな時、美佳は人を愛することの幸せをより強く思うのだった。
(やっぱり健ちゃん以外の人なんて考えられないな…)
今夜もし健介から電話があったら、きちんと謝って、明日は帰って来てくれるように頼んでみようと思った。そうしたらきっと明日の夜は、健介の腕の中で眠れるだろう。
やがてマスターがカウンターの奥の部屋から現れ、エプロンを外しながら美佳の席の方に歩み寄った。
「じゃあ、申し訳ないけど。」
「あ、はい…。」
美佳は少しホッとした。喫茶店のマスターが店に来た女性客とどうかなるなんて、テレビドラマの世界の話で、現実には聞いたことがない。たとえ一瞬でも、ふしだらな考えをしてしまった自分に心の中で苦笑した。
「マスター、どうもごちそうさまでした。」
愚痴を聞いてもらったことがなんだか照れくさくて、マスターの顔を見られなかったけれど、美佳は礼を言って席を立った。
立ち上がろうとした。
が、思ったよりワインが効いているのか足元がふらついてうまく立てなかった。同時に軽いめまいを感じた。
(あ…あれ…?)
美佳は椅子に尻餅をつき、眉間を手で押さえた。頭が重かった。普段ならこのくらいは飲んでも酔うようなことはないのに、今日は感情が昂ぶっていたのだろう。やっぱりワインは一杯にしておけばよかったと今になって後悔した。飲みやすい口あたりについ油断してグラスを空けてしまった。
「大丈夫?」
マスターの両手が後ろから美佳の両肩を掴んだ。
「ええ…、大丈夫です。すみません。」
肩を支えてもらって美佳は立ち上がった。だがすぐにバランスを失って背後のマスターにもたかかるような格好になった。
(なんだか…体が…熱い…)
頭の中もぼんやりとして意識がはっきりしない。
「あんまり大丈夫でもなさそうだね。」
耳元でマスターの声がして、次の瞬間、美佳にとって信じられないことが起こった。肩を支えてくれていたマスターの手が離れたと同時に、太い腕が美佳の細い体を後ろから抱きすくめたのである。
「あ…なにを…」
マスターの腕の力は強く、少し体を揺すったところで逃れようがなかった。きつく締めつけられた。背中に頑丈そうな体格のマスターの体重がかかって、倒されそうになる。
(あっ…!)
マスターの手が美佳の胸に移動した。ポロシャツの上から、胸の二つの膨らみが手の平に包まれた。
「あ…あの…やめてください…」
誰もいない喫茶店。美佳の目の前に大きなミラーがあった。薄く化粧をして髪をポニーテールにまとめ、白いポロシャツにベージュ色のスラックスという軽装の美佳自身が、鏡の中で背後から男に抱かれている。
男と鏡の中で目が合った。マスターは、とてもさっきと同一人物とは思えないようなギラギラとした目で鏡から美佳を見つめていた。心優しく、お人好しのように見えたマスターの豹変が、美佳にはいっそう不気味に思えた。だがなぜか、ミラーから目を背けることはできなかった。
恐ろしい光景だった。後ろから、まるで双乳の量感を確かめているかのように胸を包んでいる手は、夫のものではない。まだ二回しか会ったこともない、しかも恋愛感情など全くない男性なのだ。鏡の中にいるのは自分ではないように思えた。
「奥さん…」
マスターは瞳を輝かせて首筋に唇を這わせてくる。なま暖かいような冷たいような、ザラザラとして濡れた感触…。耳に熱い息がかかる。美佳は体を固くしたが、思うように力が入らない。
「きれいだ…」
されるままになっている美佳の顎が、マスターの熱い手に包まれた。その手の力で顔が後ろを向かされた。
「あ、や…」
そこにマスターの顔が近づいていた。マスターはゆっくりと美佳の唇を奪った。
「う…んんっ…」
まるでいけない夢でも見ているようだ。ゾクッと全身が震える。夫とは違う匂いに、鳥肌が立つほどの激しい嫌悪を感じた。
けれどその時、美佳の心の中に広がったのは、嫌悪感ばかりではなかった。夫に冷たくされても自分に優しくしてくれる男の人がいる、という思いが、脳裏をかすめていった。頭の中がじーんと痺れて、徐々に抵抗しようとする気持ちが失われていく。
「…ん…あ…」
美佳は鼻から甘い吐息を漏らした。長く、巧みなキスだった。舌先が唇をくすぐるようにしながら、少しづつ美佳の口を開かせていく。歯を固く閉じているつもりなのに、いつの間にか隙間ができてしまう。
「…んっ!」
舌先が入って来た。美佳の小さな舌に優しく絡んでくる。
(あ…だめ…)
美佳は腰くだけに崩れそうになった。夢中で振り返り、マスターにしがみつく。そのスマートな肢体をマスターの厚い胸がしっかりと抱きとめる。ヒップはマスターの大きな手の平に包まれて、撫で回されている。膝の震えが抑えられない。
マスターが長いディープキスの後、今にも倒れそうな美佳を軽々と抱え上げた時、美佳は意識が朦朧としてマスターの腕にしがみついたままでいた。気の遠くなりそうな濃厚なキスがひとまず終わったという安堵があって、事態がさらに悪い方向に進もうとしていることがよくわからなかった。
マスターは抱き上げた美佳をカウンターの裏にある小部屋に連れ入った。美佳の実家のリビングと同じ、八畳くらいの広さだろうか。店の方の大きさを考えると、少し意外に思うほどに広い。スチールの事務机に事務用の椅子、それに木のフロアテーブルと革張りのソファー。事務室兼応接室のような部屋である。
マスターは美佳をソファーの上まで運んで行って座らせた。そして自分も斜めに美佳の方を向いて腰をかけた。
マスターは何も言わない。まっすぐに美佳を見つめている。耳鳴りがしているのか、周りの音があまり聴こえない。黙って見つめ合ったまま、数分が経った。正確には数秒だったのかもしれないけれど、とても長い時間に感じられた。
驚きと、戸惑いとで、声が出ない。
マスターの視線が、美佳の瞳からはずれ、下の方に動いた。口元から首筋、そして胸まで下りていった時、マスターの片手が伸びて来た。いきなり、胸に手が置かれた。ポロシャツの上で、その手がゆっくりと動く。
乳房を揉まれているのだ、ということを自覚したのは、乳首の所に彼の指が触れ、美佳の体がピクッと震えたときだった。急に美佳は恐ろしくなった。強い拒絶の心が湧いてきた。
マスターは初めは柔らかく、それからだんだん強く、美佳の胸を揉みほぐすように愛撫する。
数年前、女子大の同級生達と温泉に行った時、美佳の胸をまじまじと見た級友に「美佳って着痩せするタイプなんだ」と言われた。体は細いのだけれど、Dカップのブラがちょっぴりきつい感じがする。
美佳は目をつぶった。冷静になろうとした。逃げなくては、と思う。まるでこれではマスターにこんなことをされるのを容認しているようではないか。
(私、こんな女じゃない…)
夫婦喧嘩をしたからといって他の男に体を許すような、ふしだらな女ではない。たしかにこんなことを、一瞬期待しかけたのも事実だけれど、美佳はもう人の妻なのだ。少し愚痴をこぼしたけれど、健介を愛している。これ以上は断固として拒まなくてはいけない。夫を裏切ることは絶対にできない。
(でも…)
美佳はすでにこの中年のマスターに唇を奪われてしまった。それだけでも大変なことなのに、今は服の上からとはいえ胸の膨らみを触らせてしまっている。
もっと激しく抵抗しなくてはいけないのはわかっているのだが、マスターの鳶色の瞳で見つめられた時から、まるで催眠術でもかけられたみたいに全身がだるい。本来ならマスターのその手を引き剥さなくてはいけないのに、美佳の両手はソファーに張られた革をぎゅっと掴んで動かすことができない。その手を離した瞬間にソファーに横向きに倒れてしまうような気がした。
それに美佳には、どう抵抗すればいいのかわからなかった。大声で叫んで、やみくもに手足をばたつかせて暴れればいいのだろうか。
もっと乱暴に、例えば力づくで押し倒されたりすれば、暴れたり、叫んだり、そういう抵抗の仕方ができると思う。でもマスターは一切、そんな強引なことをしていない。なんだかタイミングが掴めないような、暴れることによって逆に相手を凶暴な野獣に変えてしまうのが怖いような、そんな心境だった。
(あ…)
ポロシャツが、少しづつたくし上げられていた。美佳が目をつぶったのを見て、マスターはもう片方の手を伸ばしてきたようだ。ポロシャツの下に、手が潜りこんでくる。
「キャッ…」
ブラジャーに包まれた乳房が鷲掴みにされた。小さな悲鳴にも似た声を出して、美佳は目を開けた。目の前に、マスターの鳶色の瞳があった。怖いほどに真剣な表情で、美佳を見つめている。
「震えてるね。」
マスターが言った。きれいなバリトンの、優しい声音だった。それに信じられないほど、落着き払っている。
「え…?」
たしかにそうだった。腕も、脚も小刻みに震えていた。
「怖い?」
マスターが顔を寄せてくる。首筋に、キスをされる。美佳はうなずいた。うなずけば、やめてくれると思った。
「旦那さんを裏切るのがいやなんだろう?」
また、美佳はうなずく。
「でもね、奥さんは逃げられないよ。この部屋は防音になってるから、大声出したって外には聴こえないしね。」
とても恐ろしいことを、穏やかな口調で言われると、あまり恐怖が湧かない。マスターの顔は、微笑んでいるような表情に変わった。
「旦那さんを裏切れない、って気持ちは偉いと思うよ。だけど彼の方だって、君にこんな淋しい思いをさせて、仕事を優先してる。それは夫婦にとって裏切りにはならないのかな…?」
「そんなこと…」
反論もできず、美佳は黙った。
その機を逃さず、マスターは美佳のポロシャツを脱がせた。頭が混乱して、されるがままになっている。上半身が裸にされようとしている危機にさえ、よく気づかなかった。
(裏切られてる…?)
あの心優しい健介が、美佳のことを考えていない時間がどのくらいあるんだろう。残業しているときは、どんなことを思いながら仕事しているのだろう。
なぜだか思考が緩慢で、マスターの言葉を打ち消すような気力が湧いてこない。まだ酔っているのかもしれない。
(しっかり…しなくちゃ…)
そう思った瞬間に、マスターが美佳の背中に手を回し、純白のブラジャーのホックを外した。乳房を覆っていた布があっけなく剥ぎ取られて、美佳は我に帰った。
「やめてください…!」
慌てて、両手で胸を覆い隠す。
「隠しちゃだめだ。」
マスターは美佳の両手首を掴むと、いともたやすく胸から引き剥した。
「いやっ」
必死で抵抗しようとする美佳の両手は難なく背もたれに押さえつけられ、それから徐々に背中の後ろに持っていかれた。その美佳の両手首を片手で押え、空いた片手で自分のベルトを抜き取っている。
「あっ、なにを…!」
マスターはそのベルトで、美佳の両手首を後ろ手に縛った。やけに慣れた手さばきだった。痛くはないけれど、しっかりと手首が固定されてしまっていた。
「ほら、こうすれば罪の意識もないだろう?浮気してるんじゃない。犯されてるんだよ、奥さんは…」
露骨な言葉に、背筋が凍りついた。マスターは美佳の拒絶感を見抜いていたのだ。また別の恐怖が美佳の心を支配した。今、美佳の上体は裸にされてマスターの前に晒されているのだ。
マスターは顔を遠ざけ、美佳の胸をじっと見た。すぐに両手が伸びて来る。
「素敵な胸だ…。」
二つの手で乳房を強く揉みながら、首筋に舌を這わせる。舌は素肌を唾液に濡らしながら、胸に移動していく。小さな、桜色の乳首を口に含む。
「や、やめて…あ…」
美佳の体がビクッと揺れた。胸の先端を舌で弄ばれただけで、その刺激がすぐに、大きくなって身体の芯に達した。
(どうして…?お酒のせい…?)
美佳の体は震えながら、あまりにも素直にマスターの愛撫に反応していた。小さな乳首は微かな痛みを感じるほどピンと突き立ってしまっていたし、全身の火照りが美佳の下半身を疼かせてしまっている。
マスターは胸から腹部へと、美佳の白い素肌を愛おしむように丹念に舐める。
美佳の上半身が、汗と男の唾液に濡れて光る。
「やめて下さい…お願い…」
美佳の声が力を失っている。マスターの手がスラックスのボタンにかかる。両手を縛られた美佳にはもうどうすることもできなかった。ボタンが外され、ジッパーが引き下ろされた。ストッキングは履いていない。押し開かれたジッパーの間からは、薄ピンク色のショーツが現れた。
伸縮性がよく、光沢のある化学繊維を使った小さなショーツは美佳の女の部分にぴったりとフィットしている。しかも前を覆うかなりの部分がメッシュになっていて、そこから淡い翳りが透けている。デザインが大胆すぎて、美佳が滅多に着けないものだった。
「ほう…」
マスターが顔を上げた。さっきの穏やかな表情とはまるで別人だった。にやりと笑った目には卑猥な光が宿っている。
「意外と派手な下着だね。」
美佳の両手を縛ったことでマスターには余裕ができたようだった。声が低くなっている。スラックスと一緒にローヒールの靴が脱がされた。
「見ないで…」
美佳は腰をよじろうとしたが膝を押さえつけられていて叶わなかった。力が入らない。逆に両脚が開かれていく。美佳の恥ずかしい部分が、マスターの鳶色の瞳のすぐ前にあった。その奥が潤み始めていることに、美佳は気づいていた。
「ククク…」
マスターは下品な笑いを漏らしながら、美佳の脚に唇を寄せていく。張りのある太腿に舌を這わせる。ざらざらとした口髭が肌を擦る。
「い…いや…」
舌が脚の付け根の方に這い上がって来る。
「ああ…やめて…」
「クク…いっぱい濡れてパンティが透けちゃってるよ…。」
「う…うそです…」
「嘘じゃないって。」
マスターがそこに顔を寄せる。長く、舌を出す。
「あっ、だめっ…!」
ぴったりと張り付くように陰部を覆っているショーツに、舌先が触れた。そこはマスターが言った
通り、美佳が意識していた以上に濡れていた。ぬるっ、という感触があった。
「ああっ!」
ショーツの上からなのに、そこをマスターに舐められた瞬間、まるで体じゅうに電流が走ったように美佳のお腹がビクッと大きく波うった。
(ど…どうして…?)
希薄な意識がさらに遠のいていき両脚が自然に開いてしまう。マスターは猥褻な音を立ててそこを舐めあげながら美佳の顔を見上げていた。濡れたショーツを吸ったりもした。乳房は手の平でまさぐられている。
「あっ…ああ…!」
美佳は切なそうに顔を歪めて時どき大きく体を震わせたが、マスターの妖艶な眼から視線を離すことができなかった。
「感じやすいんだねえ、奥さんは…。もうこんなに濡らして…」
マスターは美佳の瞳を覗き込みながら意地の悪い笑いを浮かべ、舐めている部分を指でなぞった。
再び乳房にむしゃぶりつく。美佳のきめ細やかな肌を舐め、尖った乳首を舌で転がす。
「…いや…ああっ…!」
ショーツの中に手が入ってきて美佳の蜜の泉に触れた。
「びしょびしょだよ…」
マスターがリズミカルに指を動かすとそこはクチュクチュと淫猥な音を立てる。
「ああ…あん…いや…あっ…ああっ…」
美佳は固く眼を閉じ、体を反らして絶え間なく声を上げ続けた。マスターは美佳の胸といわず首といわず、全身を舐め、ときどき唇を吸った。美佳は両腕を後ろ手に縛られ、大きく脚を広げたあられもない姿でマスターの激しい愛撫を受け入れていた。
「さあ、奥さんの大事なところを見せてもらおうかな。」
ショーツの細くなっている横の部分に手が掛かった。膝が合わせられる。美佳は自然に腰を上げてしまったから、マスターはすんなりとショーツを剥ぎ取った。もう何も、身に着けているものはない。
「脚を開いて…よく見せて…」
「い、いやっ…」
脚を開かせまいと精一杯力を入ようとするのだが、両手を縛られていることもあって到底マスターの力にはかなわない。
「襞が開いて…きれいなピンク色が見えてる…濡れて光ってるよ…。」
「ああ…お願い…見ないで…」
健介にも、まじまじとなど見られたことのない恥ずかしい部分が、マスターのぎらぎらとした眼の前に晒されている。そう思っただけで、太腿の内側がビクッと震える。その太腿の柔肌に手を当て、マスターが顔を近づけて来る。
「あっ…だめっ…!」
秘所にキスをされる。
「いや…あ…あ…」
割れ目に沿って、舌が柔襞をかき分ける。溢れ出る蜜をすする。
「ああっ…!」
濡れて光る小さな芽が、唇に挟まれた。美佳は飛び跳ねるように反応し、大きな声を上げてしまっていた。
「奥さん、感じるだろう。」
舌で刺激しているマスターの声は、まるで遠くから聞こえるようだ。
「ああっ…すごい…」
「欲しくなってきたろ。」
「…こ…こんなの…ど…どうして…」
「クックックッ…ワインの中にね、媚薬が入ってたんだよ、奥さん。」
「ビヤク…?」
「そう。エッチな気分になる薬だよ。こんな時間に奥さんみたいに若くてきれいな女性が一人で来るなんて、絶好の獲物じゃないか。」
マスターのその言葉は美佳にとって大きな衝撃だった。
「そんな…」
親切そうなマスターの言葉は初めからすべて美佳をこうして辱めるための演技だったのだ。
(ひどいわ…)
立ち上がったときによろけたのもワインのせいではなかった。そして体のあまりに敏感な反応も …。きっとこんな風にして女性の一人客を犯すことがあるのに違いない。
(ああ…犯されてしまう…)
そう思った時、言いようない倒錯した快感が襲ってきて、腰の辺りが痙攣した。美佳の女の部分はマスターに貫かれるのを待っているかのように熱く濡れ、太腿は細かく震えていた。
マスターが立ち上がった。美佳の顔の前で、ズボンのジッパーを下ろし、中から黒々とした肉の棒を引きずり出す。それはすでに力を漲らせて、硬く膨張していた。先の部分のサーモンピンクが異様に思えた。
「旦那さんのは舐めてやるんだろう?」
「えっ…」
マスターの手でポニーテールにした後ろ髪が乱暴に掴まれた。目の前に黒々とした性器が迫る。髪を掴まれているから顔を背けることができない。
「う…!」
それが唇に押し当てられた。
「舐めるんだ。」
「いや…」
「旦那のは舐めるんだろう?」
もう一度、今度は少し乱暴に訊かれて、否定することができなかった。
健介は口で愛されるのが好きだった。美佳も健介自身を口に含み、それが口の中で大きく硬くなっていくのを嬉しく思う。
「舌を出すんだ。」
マスターは美佳の沈黙を肯定と受け取って、髪を掴んだ手に力を加える。美佳は観念し、小さな舌をゆっくりと出した。そこにマスターの熱く硬い肉棒が押し当てられる。
「いつも旦那さんにするようにしてごらん。」
「ん…」
美佳はそれにゆっくりと舌を這わせた。屈辱を感じたのは、ごく短い時間だった。健介のものとは違ったマスターの強い体臭が、美佳を妖しい陶酔へと導いた。
(薬のせいだわ…エッチな薬の…)
舌と唇とを絡みつけるように男根に奉仕する。
「さあ、咥えて…」
マスターに命じられ、それを口の中に入れた。マスターが腰を動かすたびにそれは深く浅く、美佳の口を犯す。
「もっと唾を出して…そう…。舌を使って…」
命じられるままに、深く咥えこみながら舌を絡めていく。
「唾でべとべとにするんだ。」
マスターは片手で美佳の頭を押さえつけながら、片手の指先で美佳の乳房への愛撫を続けている。しゃぶっているうちにも、美佳の泉から熱い蜜が溢れ出ていく。
「う…う…んっ…」
美佳はくぐもった吐息を漏らしながら夢中で頬張り、しゃぶった。マスターの肉塊は美佳の口の中でさらに硬さを増して脈打っている。
「ふふふ、うまいな…。おとなしそうな顔して…エッチな奥さんだ…」
「…ああ…」
肉棒を口から出し、根元から袋の部分へと舐めていく。その顔をマスターがじっと見つめている。
「ああ…マスター…おねがい…」
「欲しいか?」
美佳は少女のようにうなずいた。マスターの剛直に貫かれたかった。
「ふふっ…素直ないい子だ…。奥さん、名前は…?」
「…え…?」
「名前だよ、奥さんの。」
「いやっ…」
「言うんだ。」
「ああ…マスター…許して…」
「欲しくないのか?」
「ああ…でも…」
「ほら、名前…言ってごらん。」
「…美佳…です…。」
消え入るような声で、自分の名前を言う。
「美佳か…。可愛いよ…。」
マスターは美佳の頭から手を離して膝をつき、今までマスターの性器を舐めていた美佳の唇にキスをした。舌が入ってくる。濃厚なキスだった。美佳もそれに応えるように舌を絡ませていく。
そして、マスターは硬い勃起の先端を美佳の泉に当てがった。
「マスターに犯されたい、って言ってごらん…。」
「…え…」
焦らされて、美佳は腰を震わせた。
「言ってごらん…。」
「…マス…ターに…犯さ…れたい…」
「聞こえないな。」
「ああっ…いや…」
「もう一回。」
「ああ…恥ずかしい…」
「ずっとこうしてるか?」
「いや…お願い…」
「言うんだ、美佳。」
「マスター…お…犯してっ…!」
美佳が命令通りに恥ずかしい言葉を口にした瞬間、マスターはグッと腰を沈めて美佳を貫いた。
「あああっ…マスター…!」
両腕を縛っていたベルトがはずされた。美佳はマスターにしがみつく。マスターは美佳の腰を掴んで、深く美佳を突き上げた。
「あっ…あっ…あっ…」
マスターが奥まで突いてくるたびに美佳は声を出し、悶えた。マスターは激しく腰を使いながら美佳の唇を吸い、乳房を揉みしだいた。
「ふふふ…美佳…感じるか?」
「ああ…気持ちいい…ああ…どうか…なっちゃいそうっ…!」
思うままに淫らな言葉が出てしまう。
「旦那さんとどっちがいい?」
「ああっ…おね…がい…言わないで…」
「言うんだ…」
「ああ…いや…」
「言うんだ。」
マスターが指で美佳の乳首をつまみ、強くつねった。
「…痛いっ…ああっ!」
乳房全体に激痛が走った。言いようのない感覚が子宮まで伝わって、美佳は大声をあげていた。
「言うんだよ、美佳。旦那とどっちがいい?」
「ああ…マスター…こんなの…私…初めてっ…!」
それを口にしたと同時に、大きな波が美佳を襲った。
「あああっ…!」
体中が硬直し、目の前は強い閃光で真っ白になった。そして急激な脱力がやってくる。健介との行為では数回しか迎えたことのない絶頂であり、しかも今まで経験したことがないほど強烈だった。
美佳が達したのを見て、マスターが深く埋め込んでいた剛直を引き抜いた。美佳の体はぐったりとソファーに横たわる。無駄な肉のない下腹部も太腿も、細かく痙攣していた。唇が重ねられ、美佳はためらいもなく舌を絡めていった。
マスターは濃厚なキスをしながら美佳の華奢な肢体を抱き起こした。ソファーに浅く腰掛け、脚を大きく広げていた元の体勢に戻される。マスターは床に跪き、開いた両脚の付け根に顔を埋めた。両手を腰の後ろに当てがい、抱え込むようにして美佳の花弁に唇を寄せる。
「あん…」
朦朧とした意識を空中に浮遊させていた美佳の体が、またピクッと震え、甘い声が漏れた。とろとろに溶けたような柔襞に、舌が割りこんでくる。いとおしむような柔らかさで舐められたその部分が、小さな音を立てる。
舌は淡い恥毛に包まれた隆起へと這い上がり、さらに腹部から胸、そして喉へと、滑らかな素肌を舐め上げる。両膝を割って腰を入れ、太腿の付け根にぴったりと男根を密着させた。
「さあ、もう一回可愛がってやるからな。」
「ああ…やめて…」
「無理しなさんな…。腰がヒクついてるぞ…。」
美佳が反論しようとするのを封じ込めるかのように、唇が塞がれた。
(もう…どうなっても…いいわ…)
美佳の全身から力が抜けた。すでにマスターの硬直の先端は、美佳の濡れた深みを探り当てている。美佳の腰がマスターを求めてわなないた。
「んんっ…!」
マスターは唇を重ね合ったままで結合した。美佳の細い体が反りかえり、喉が突き出される。
マスターはすぐに律動を再開する。
「んっ…うう…あん…」
責められる美佳の声が甘いすすり泣きに変わる。
「自分で触ってごらん…。」
マスターが腰を動かしながら美佳の手を取った。右手を胸に、左手を秘部に導く。
「いや…ああんっ!」
淫らな蜜に濡れて硬くなった小突起が指先に触れた途端、腰がせり上がった。
「感じるように指を動かして…そう…胸も揉んで。」
右手で乳房を包んで強く揉んだ。
「ああ…マスター…恥ずかしい…ああっ…!」
突き上げられながら自分の体を自ら愛撫し、美佳は官能にのめり込んでいく。握るように乳房を揉み、もう一方の手で秘丘を包むようにしながら、指の先で、男根が挿し入れられた蜜壷の入り口を刺激する。今まで数えられるほどにしかしたことのなかった自慰を、見られている。そしてしかも、見られながら犯されている。
目が眩むほどの羞恥だった。だが美佳は、激しく感じていた。全身が燃えているように熱っぽい。
「美佳…、一人でこんな風にすることもあるのか?」
マスターは美佳を焦らすように、腰の動きを急に遅くした。
「あっ…いや…」
美佳の腰が、マスターの律動を求めて震える。小さな、濡れた突起を愛撫する指の動きが止められない。クチュッ、という可愛い音がした。
「旦那さんがいない時は、こうやって一人でするんだろう?」
「ああっ…いや…おねがい…」
「激しくしてほしかったら、正直に答えるんだ。」
「ああ…う…んっ…したこと…あります…」
「いい子だ…」
「ああ…だから…お願い…」
マスターがグッと深く突き上げる。奥に、当たる。
「あああっ…!」
美佳はのけぞって喘いだ。だがすぐにまた、マスターはわずかに腰を引く。
「痴漢に遭った後もしたことある?」
「えっ…」
美佳はビクッとして、自分の体に触れていた手を引っ込めた。
「ふふ…あるんだな?」
「え…あ…あり…ます…」
それは一昨日のことだ。
「帰りの電車で痴漢に遭ったのか。」
「ああ…だって…混んで…いて…」
「どんなことされた?」
矢継ぎ早に質問が浴びせられる。体ばかりでなく、誰にも言えない恥ずかしい秘密までが裸に剥かれていく。
「ああ…いや…」
「どんなことされた?」
「ああ…スカートの…後ろの…ジッパーを…下げられて…あんっ…!」
質問に答えるたびに、マスターは美佳を深く貫く。
「手が入ってきたのか。」
「…ストッキングが…破かれて…」
「後ろから?」
固く目を閉じたまま、美佳はうなずいた。息が上がっていて、話をするのがつらい。でも答えないと、マスターは何度でも同じ質問を執拗に繰り返す。
「それ、いつの話だ?」
「お…おととい…です…」
「旦那が帰って来なかった日だな。どんな奴だった?」
「ああっ…!」
マスターは楽しむような声で問いながら、しかし嫉妬した男のように荒々しく美佳を突いた。
「どんな奴だった?」
「わ…若い…人…」
「学生か?」
「わからない…でも…怖い…感じの…」
その日は夕方の車両故障の影響で埼京線のダイヤが乱れていて、ことさらに混んでもいたし、電車の速度も遅かった。通勤快速が武蔵浦和を出てまもなくだった。停止信号で停車する旨のアナウンスがあって、電車が停まった。
突然、後ろからヒップを撫で上げられた。美佳は振り返って、後ろの男を睨みつけた。その時の光景が瞼の裏に甦える。
「チンピラか。」
「え…うん…そんな…感じ…でした…ああっ…」
サングラスをかけ、胸の開いた派手なシャツを着ていた。ガムを噛んでいるのか、口を絶えず動かしていた。
「逆らえない感じだったんだな?」
「だって…ああ…」
凶暴そうな男だった。睨みつけたくらいでは、まるで効き目がなかった。美佳と目が合ったとき、男はたしかに不敵に笑った。
「それから?何された?」
「指で…さわられて…下着の…ああっ…」
「下着の上から触られたのか?」
「うん…でも…中に…ああ…指が…」
直接、触られたのだ。男の指先がショーツをくぐって、今マスターに貫かれている、そこに触れたのだ。
「美佳はそれで、感じたんだ。」
「ああ…いや…」
恥ずかしさで、気がおかしくなりそうだ。痴漢の指は、まるで魔力を宿しているように美佳の性感を刺激した。逃れることも、抵抗することもできない満員電車の中で、おぞましく思う心とは裏腹に、美佳の秘部は潤んでしまった。
「じかに触られて、濡れたんだろう。」
「ぬ…濡れてるぞ…って…」
「言われたのか。」
「うん…だって…ああ…マスター…恥ずかしい…」
「触られたのはココだけか?」
「あ…む…胸も…後ろから…手を…伸ばして…触ってきて…」
美佳はは今までにない経験に陶然としてしまっていた。マスターの質問に一つ答えるたびに、こんなに恥ずかしい思いをしているのに、心の中は痺れるような淫らな感覚にうち震えているのだ。
「周りの人は気がついてなかった?」
「え…わから…ないわ…ああ…」
あの時はそこまで気が回らなかったけれど、近くに乗っていて美佳が痴漢に遭っているのに気づいた乗客だっていたかもしれない。見られていたかもしれないと思うことが、また美佳の官能を煽る。
「痴漢が誘ってきただろう。」
マスターはまるで見てきたかのように的確に美佳の記憶を言い当てる。
「あ…ホ…ホテルに…行こう…って…」
「ふふ…それで?」
美佳は切なそうに眉を寄せ、首を振った。電車が途中の大宮に着いて、美佳は電車を駆け降り、ホームを走って逃げたのだ。男はしかし、追っては来なかった。
「怖くなって逃げたのか。」
「うん…ああ…もういや…」
「ふっ…いやなもんか。美佳、奥からどんどん溢れてきてるぞ…。」
「ああ…言わ…ないで…」
「本当はその痴漢とホテルに行きたかったんじゃないのか?」
「そ…そんな…いやっ…!」
「でも、家に帰って思い出したんだろう?」
家に帰って、いつもより時間をかけてシャワーを浴びた。その後、健介から、今日は帰れないという電話があって、一人淋しく食事を取り、早めにベッドに入った。初めは健介のことを考えていたのだ。健介の硬い肉体と優しい愛撫を思い出して体が熱くなった。そしてふと、敏感な部分に指を当てがった時、突然、夕方の電車の中でのことで頭の中がいっぱいになってしまった。
「思い出して、どんなふうにしたんだ?」
マスターが再び美佳の手を取って秘部に導いた。
「あっ…マスター…いや…ああっ…」
「ほら、美佳。どんなふうにしたか、やってみな。」
マスターの声が興奮している。でもマスターは興奮を抑えて、宥めるような口ぶりで言う。
美佳は細く長い指を伸ばした。人差指の腹の部分で突起をこするようにする。
「あっ…ああんっ…」
腰がせり上がり、小刻みに震えた。
「ククク…エッチな奥さんだな…。」
「ああ…やめて…」
「一人でしながら、その痴漢にヤラれるのを想像したんだろう?」
「う…ん…」
「どんなふうにヤラれたかった?」
「…う…うしろ…から…」
「ふっ…バックか。じゃあ美佳、後ろを向いて。」
マスターが剛直を引き抜き、美佳の腰を両手で掴んだ。ソファーから下ろされ、後ろ向きにされる。床に膝をつき、ソファーにうつ伏せに体を投げ出す。
「お尻を突き出して…そう、きれいなお尻だ…。」
お尻の形を褒められるのは初めてではない。女子大時代の友人に、「美佳が痴漢に遭いやすいのはお尻が格好いいからだ」なんて言われたこともある。
美佳はその尻をマスターに突き出した。半球に近い曲線が形づくられる。マスターがその張りのある双丘をそっと撫で、それから美佳の柔襞の合間に男根を押し当てた。美佳の腰が震える。
「欲しいか?」
「ああ…マスター…い…入れて…」
美佳の求めに応じて、マスターが腰を入れた。いきり立った肉棒が美佳の柔肉に分けて入って来る。美佳の濡れた女の部分が猥褻な音を立てた。
「んあっ…!」
思わず甘い歓喜の声を上げてしまう。
「ホテルに連れ込まれて、こうやって犯されたかったのか?」
「そ…そんな…いや…ああっ…!」
荒々しく突かれる。マスターの腰の動きが速くなる。剛直が美佳の一番深いところまで届き、美佳はソファーに肘をついて上体をのけ反らせた。
「こんな風に、されるの、想像…、したんだろう…?」
「うん…ああ…あん…ああっ…」
マスターが突き上げるたびに美佳の乳房が大きく揺れ、唇から声が漏れる。マスターの息使いも荒くなっている。
「美佳、想像してみろ…、痴漢に誘われて…、うなずいていたら…、ラブホテルで、こうして、犯されてたんだ…」
「ああっ…いやああっ…!」
痴漢の男の顔が、瞼の裏に浮かんでくる。背後から乳房に手が伸びてきた。痛いほど強く、鷲掴みにされる。電車の中であの男にされたのと同じように、乱暴に揉みしだかれる。
「痴漢の、男に、されてる、みたいだろう…」
「い…いや…ああっ…」
あの男に犯されているような錯覚が、美佳を妖しい陶酔の世界に引きずり込む。必死でソファーにしがみついていないと、体がバラバラになってしまいそうだ。
マスターは美佳の背にのしかかるようにして、後ろから乳房を揉みながら、突き上げて来る。首筋に熱い息がかかる。その吐息とともに耳元でマスターの声がする。耳たぶを口髭がくすぐった。
「痴漢に犯されたかった、って言ってみな…」
「えっ…」
耳元でささやかれる言葉に、美佳は激しく動揺した。
「ほら、美佳…言うんだ。」
「ああ…ち…痴漢に…お…犯されたかった…あ…いやああっ…!」
頭の中が真っ白になる。全身がカーッと熱くなる。美佳のきめ細やかな肌が桜色に染まっていく。
「美佳…、感じるかっ…」
「ああっ…か…感じるっ…!」
「美佳っ…!」
マスターの腰の動きが更に速くなる。
「ああっ…マスター…だめっ…」
「美佳…イク…イクぞっ…!」
「ああ…私も…ま…また…イッちゃうっ…イ…イ…クッ…!」
再び大きな快感の波が美佳の視界を白い光で覆った瞬間にマスターが腰を引き、熱い液体が美佳の背中にほとばしった。
美佳はぐったりと床に倒れた。意識が朦朧として、うつ伏せのまま、動くことができなかった。太腿が細かく痙攣していた。ときどき、体の奥から快感の名残が湧き、尻の当りが震えた。
美佳はそのまま、深い闇の中に落ちていった。