エロ満載、天下の五奇祭


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奈良時代以前からこの国の基盤を形成していたさまざまな性風俗は、国家が整備されるにつれて、国の繁栄を寿ぐセレモニーへと変質した。
      
男女が歌を交わしながら性関係にいたる歌垣は、踏歌かと呼ばれてエロティシズムとは無縁の皇室行事になったし、田植えも豊作祈願と称して男女の性交の姿を演じたり、場所によっては豊作祈願を口実に、実際に性関係を結ぶケースが見られたが、皇室行事として定着した結果、御田(おた、またはおみた)祭りという色っぽさの削がれたイベントになった。
      
しかし、「エロ」抜きの祭りが国家の行事として定着する一方、庶民の間にはあらたなエロの祭りを創ろうとする動きも活発になった。
      
『八雲御抄』は順徳天皇の著書で、鎌倉時代の1200年頃に成立したものだが、そこに「天下の五奇祭」として挙げられた祭りは、いずれも平安時代に生まれた新しい性の奇祭であった。
      
五奇祭とは「江州筑摩社の鍋被り祭り、越中鵜坂社の尻叩き祭り、常陸鹿島神宮の常陸帯、京都・大原の江文社の雑魚寝、そして奥州の錦木」の5つを指す。
      
この中でも前に挙げた3つは平安時代の時代風潮を祭りという形で具現化した証しであった。
      
江州筑摩社とは現在の滋賀県米原市朝妻にある筑摩神社で、鍋被り祭りは土地の女性が1年間に関係した男の数だけの鍋をかぶって参拝するという祭りである。
      
平安時代の初期に始まったといわれ、『伊勢物語』にも、
      
「近江なる筑摩の祭りとくせなむつれなき人の鍋の数見む」
(近江で行われる筑摩の祭りを早くやって欲しいものだ。私につれなくした女性がかぶった鍋の数を見たい)
      
という歌が見えている。
      
沢山の男性と関係した女性が数をごまかすと神罰が下るとされたが、実際には過少申告する女性はいなかったらしい。
それというのもこの地は交通の往来が激しく、朝廷の御厩も置かれていた。
      
御厩とは皇室や公家が旅行する際、馬や牛車などの世話をする役所である。
      
そういう繁華な土地だけに歌垣なども盛んだったらしく、沢山の男性とセックスすることは恥ではなく、女性の誇りであったからである。
      

 

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