「え? 香菜となんだって?」
直之は、思わず聞き返した。親友の伊黒の言った言葉が、聞こえてはいるけど理解できなかったからだ。伊黒は、
「いや、しばらく戻れなくなっちゃうから、思い出に香菜ちゃんとデートさせて欲しいなって……。ダメかな?」
と、言った。切れ長の目でクールな印象の伊黒が、モジモジとしながらそんなセリフを言うことに、直之はさらに驚いた。
直之と伊黒は、高校時代からの付き合いだ。中肉中背でルックスもごく普通の直之と、ちょっと怖い印象を持たれがちだけがルックスの良い伊黒は、なぜか初対面の時から馬が合った。
あまり女性にもてない直之に、モテて仕方ない伊黒が女の子を紹介したりすることもあった。
そんな伊黒が、海外赴任が決まった途端、急に直之の妻の香菜とデートがしたいと言い出したことは、直之にとっては青天の霹靂だった。
「それって、本気で言ってるの? なんで今さら香菜とデートしたいの?」
直之は、驚いていると言うよりは怪訝な顔で質問する。直之と香菜は大学の頃に出会った。なので、もう7年くらいは経過している。当然のことながら、伊黒と香菜の付き合いも7年経つ。
直之と香菜、伊黒と当時の彼の彼女とで、ダブルデートもしたことがあるし、3年前に直之と香菜が結婚してからは、頻繁に家に遊びに来たりもしている。
直之は、伊黒が香菜を女性として見ていることにも驚いていた。二人は、とても仲が良い。見ていて、気の合う良い友達なんだなと思っていた。
「香菜ちゃん、可愛いなってずっと思ってたんだよね。でも、直之の嫁さんだから、女としては見ないようにしてたんだけど、何年か会えなくなると思ったら一回くらいデートしたいなって……」
伊黒は、照れくさそうに言う。いつもクールな彼が、こんなに照れくさそうにしているのはこの先二度と見れないかもしれないなと思いながら、直之は会話を続けている。
「別に、俺はかまわないけど。香菜がOKなら、良いよ。て言うか、今まで二人でどっか行ったことなかったっけ?」
直之は、ぼんやりした記憶を遡りながら聞く。
「いや、ないよ。コンビニに行ったことくらいはあるかもしれないけど、どっかに遊びに行ったりはないよ」
伊黒は、きっぱりと答える。直之は、そうだっけと生返事をしながら、
「じゃあ、香菜に聞いてみるよ」
と、言った。そして、すぐにスマホで香菜に連絡を取り始める。それを見て、伊黒は慌てて止める。
「いや、電話じゃなくて、直接話してみてよ。て言うか、俺がいる前で話してくれるとありがたいな」
そんな風に言う伊黒。直之は、伊黒には沢山の借りがあるので、これくらいは仕方ないなと思っていた。そして、デートと言っても、別におかしな事にはならないだろうと、伊黒のことを信頼していた。
「じゃあ、これからウチに来るか? 飯もまだだろ?」
直之は、そんな風に誘う。伊黒は、喜びながらうなずいた。そして、二人は直之の自宅に向けて移動を開始する。直之の車に乗りこむと、直之はいろいろと質問を始めた。
「海外赴任って言っても、たまには帰ってこられるんだろ?」
「異常に交通の便が悪いところなんだよ。基本、船しかないし。5年くらいは行ったきりになるかな?」
「マジか……。今時、そんな場所あるんだな」
「セニョール・デ・ロス・ミラグロス市場って、聞いたことないか? ほら、テレビでもたまに取り上げてるアマゾンの奥地の」
「いや、聞いたことない。て言うか、アマゾンなの? それって、赴任なのか? 島流しっぽいけど」
「まぁ、新規開拓みたいな感じだからな。でも、可能性がヤバい。ほぼ手つかずだから、上手く行けば独占できるかもしれないんだよね」
そんな会話を続ける二人。一区切りつくと、直之は香菜とのことを聞き始めた。
「デートって、なにするの?」
「ディズニーランドとシー。出来れば、泊まりで行きたいんだけどダメかな? 1日じゃ、二つは回れないからさ」
「え? 泊まり? 一緒の部屋で?」
直之は、少し動揺している。思っていたのとは違う内容に、割と真剣に衝撃を受けているようだ。
「うん。シーの中のホテル、高いから」
「え? 中のホテルに泊まるつもりなの?」
「うん。一回泊まってみたいって思ってたんだよ」
「それは、香菜も喜ぶと思う。ずっと泊まりたいって言ってたからな」
「マジで? でも、良いの? そんなこと言ってたなら、オマエと泊まった方が良い気がするけど」
「俺はそんなにディズニーに興味ないからね」
「そうなんだ。じゃあ、悪いけど香菜ちゃん借りるよ」
「あ、あぁ」
そんな会話をしていると、車は直之の駐車場に到着した。直之は、複雑な心境を処理し切れていないような表情をしている。それに引き換え、伊黒は嬉しそうな笑顔だ。そして家に入ると、
『あれ~。伊黒さんだ! いらっしゃいませ。嬉しいな』
と、香菜は本当に嬉しそうな笑顔で言う。エプロン姿の彼女は、夕ご飯を作っている最中だ。大きな胸がエプロンを盛り上げていて、イヤでも目がそこに行ってしまう。
香菜は、先月29歳になった。ほがらかで明るい性格の彼女は、いつでもニコニコしている。童顔気味と言うことも相まって、とても若く見える。いまだに学生と間違えられることも多い。
伊黒は、クールな顔をくしゃくしゃにして笑っている。本当に嬉しそうだ。
「お邪魔します。香菜ちゃん、いつも可愛いね」
伊黒は、いつものように香菜のことを褒めながら靴を脱ぎ始める。香菜は、
『そんなことないよ! 私なんて、全然可愛くないもん。伊黒さんは、いつも格好いいよ』
と、頬をほんのりと赤くしながら言う。社交辞令とかそんなことは考えず、人の言葉をそのまま受け取るのが彼女の良いところだと直之は思っている。
ただ、実際に香菜のルックスは可愛らしい。パッチリした二重まぶたに、整った顔。童顔気味なので綺麗と言うよりは可愛いと言われることが多いが、本人はあまり自覚がない。
ピンク色の物が好きで、エプロンも可愛らしピンク色の物を身につけているが、アラサーなのに痛いかな? と、最近は気にしているようだ。
『伊黒さん来るなら、もっと良いの作れば良かったな。ゴメンね』
そんな風に言いながら配膳をする香菜。肉じゃがや焼き魚などの、ごく普通の夕食だ。でも、伊黒は嬉しそうに、
「こういう普通の夕ご飯が一番だよ。香菜ちゃんが作ってくれるな物なら、何でも美味いんだけどね」
と、言う。その言葉を聞いて、本当に嬉しそうに微笑む彼女。
直之は、いつも見慣れた光景にハッと気がついたような気持ちになる。どう見ても、二人はお互いに好意を持っている。友人と言うよりは、男女の好意に見える。今まで、そんなことを考えたこともなかったが、あらためて見てやっと気が付いた感じだ。
食事の終わりがけ、伊黒が直之に話し始めた。直之は、伊黒に促されるままに香菜に伊黒とのデートの件を話し始める。
『えっ? 海外に行っちゃうの? いつから? いつまで?』
香菜は、デートの話よりも海外赴任の話の方に食い付いている。伊黒が説明すると、香菜はボロボロっと涙をこぼす。香菜が泣いてしまったことで、直之も伊黒も大慌てになる。
『それって、断れないの? 5年も会えないなんて、寂しいよ』
香菜が泣きながら言う。直之は、香菜の涙を見て複雑な心境になっていた。嫉妬のような感情……それが、直之の心の中に芽生えている。
「いや、上手く行かなさそうならすぐに戻ってくるパターンもあるから。多分、そんなに上手く行かないと思うし」
伊黒はそんな風に説明をする。香菜は、
『でも、上手く行ったら5年より長くなるかもしれないでしょ?』
と、泣き顔で言う。
「でも、たまには帰ってくるつもりだし。なかなか難しいかもしれないけど、世界の果てに行くわけじゃないし」
伊黒は、直之に説明したこととは違う内容を話す。
『絶対だよ。約束』
香菜は、やっと泣き止んでそう言った。すると、伊黒が遠慮がちに、
「その……デートは?」
と、聞く。
『うん。する。出発までに、何回もする』
香菜は、そんな風に言う。直之は、慌てた顔で、
「え? 何回もするの?」
と、聞いた。
『うん。だって、しばらく会えなくなっちゃうんだよ。良いでしょ? なお君は、私が伊黒さんとデートするの、イヤ?』
つぶらな瞳で見つめながら質問する香菜に、直之はイヤとは言えなくなってしまった。
『良かった。じゃあ、すぐ予約しようよ』
そう言って、香菜はホテルのサイトを見始めた。意外に空いていて、翌週の火曜からの予約をすることが出来た。
「平日に、大丈夫?」
直之が質問する。
「あぁ、来月にはもう出発だから、会社も悪いと思ってるみたいで、いつでも休んで良いよって言ってるんだよね」
伊黒がそんな風に答える。そして、その後も色々と海外赴任の話をした後、伊黒は帰って行った。
『なお君、怒ってる? 泊まりはやっぱりやめた方が良い?』
二人きりになると、香菜が心配そうに聞く。
「……でも、下手したら何年も会えなくなっちゃうし。香菜はどうしたいの?」
直之は、心の中の葛藤と戦いながらそう言った。
『……行きたいな。なお君が許してくれるなら、行ってみたい』
香菜は、罪悪感を感じているような顔で言う。さすがに、泊まりで行くと言うことに色々と考えてしまっているようだ。
「せっかく予約も取れたんだし、楽しんで気なよ。伊黒なら安心だよ」
直之は、心の中の葛藤と戦いながらそう言った。香菜は、
『ありがとう。なお君、愛してる』
と、泣き笑いのような顔で言った……。
翌日、伊黒が直之の会社まで会いに来た。
「その……本当に良いのか?」
伊黒は、言葉に迷いながらもシンプルに質問した。
「あぁ。でも、一つだけ条件がある」
直之は、一晩考えた条件を口にした。なるべく写真や動画を撮って欲しいという内容だ。何をしてもかまわないが、何があったのかは知りたいという気持ちを伝えた。
「え? そんなことなら、いくらでも」
伊黒は、ホッとしたような顔で言う。条件と言われたときは、なにを言われるのか不安な気持ちが膨らんでいた。
ただ、直之はさらに話を続ける。ホテルの部屋で過ごすときは、隠し撮りをしておいて欲しいと言う内容だ。
「え? う、うん。でも、その……なにもないよ。変なことするつもりはないし、そういうことは絶対にないよ」
伊黒は、言いづらそうに話す。ただ、直之は驚くようなことを口にした。香菜がイヤがらなければ、何をしてもかまわないという内容だ。
「え? な、なんで? 良いのか? て言うか、香菜ちゃんも変なことするはずないよ」
伊黒は、軽くパニックになっている。
「……香菜が望むなら、その……望むとおりにしてやって欲しい」
直之は、少し悲しげに言う。
「な、なに言ってんだよ! そんなの、ダメに決まってるだろ? なんでそんなこと言う?」
まるで意味がわからないという顔になっている伊黒。直之は、
「香菜に後悔させたくないんだ。香菜がしたいことをしてやって欲しい。俺は、香菜を信じてるし、愛してるから。だから、香菜が万が一そういうことを望んで、そういうことになっても、俺の香菜への気持ちは変わらないよ」
直之は、そんなことを言った。
「……わかった。でも、そんなことにはならないよ。香菜ちゃん、本当にオマエのことが大好きだからさ。羨ましい限りだよ」
伊黒は、そう言って笑った。
そして、あっと言う間に時は流れ、出発の朝になった。でも、直之はいつも通りに仕事に向かう。香菜は、出発の準備をしながら、明るい顔で直之に話しかける。
『ホントに、ゴメンね。2日間、楽しんでくるね。お土産買ってくる!』
香菜は、明るく言う。罪悪感のような物は感じていないようだ。香菜自身、伊黒と変なことになるとは夢にも思っていないからだ。
そして、直之は落ち着かない気持ちで仕事を続ける。特に連絡もなく夕方になり、会社を出る直之。家に戻ると、とにかく落ち着きなく掃除をしたりゲームをしたり、コンビニに行ったりする彼。ずっとスマホを気にしているが、結局何の連絡もなく夜になる。
そして、落ち着かない気持ちのままスマホを気にし続けるが、気が付くと寝てしまっていた。ふと目が覚めると、伊黒からメッセージが届いていた。
”まとめてアップしておいた。確認して”
短いメッセージとともに、URLが記載してある。クリックすると、ファイルを転送するサービスのサイトに繋がる。直之は、タブレットにダウンロードをして内容を確認し始めた。それは、大量の写真や動画データだった。